哲学の本懐

哲学はなぜ適切に考えることができるのか
という点についてはあまり論じない

考え方について議論するだけだ
だがもっとも着目すべきところは、
なぜ今このようにしゃべれるのかということだ
西洋哲学では、この点に答えを見ない
なぜなら言葉に言葉を足す形で議論を進めるからだ

0から1を生むと言う思考が必要になる
そしてその0こそ、すべての世界の細部に宿っている、
今こうしてしゃべれると言う理性のありようだ

もう一つ突っ込んで言うなら、
こうして流れている川と、
眺めている人が揃うとき
人の中には理性が芽生える
おそらく外界に接することなしで
構築される事は無い

だからこそ、古人は世界を黄金にたとえた
自然を生き方の道標とした

当たり前の理性をもたらし
静かで満たされた理性をももたらす世界を

言葉によって詳細に語る事はできないないけれど
言葉によって伝えることはできる
今この川の流れにゆり動く心があるとき
それを実感したなら、その動いている部分を拡大してみてみるのだ
その静寂のある汪洋たる世界を

世界は日々語りかけ、理性をより太くさせる
実生活を生きる人の目が、落ち着いていて幸せそうなのはこれに起因する
現代人は仕事や便利と引き換えに
みずから理性の豊潤をはなれ
その残滓を持って生きている

金を稼ぐとか事務作業とか
そういう機械的なことなら、理性が紙切れほどでもできる
むしろ初めから紙切れの方が、抵抗なく機械になれて都合が良いぐらいだ

けれど筋肉に例えるなら、衰弱仕切っているわけだ
うまくは歩けず、体は絶えず不安の信号出してくるだろう。
時間が遅れて、ひとはその不安だけ認識するだろう

豊かな刺激を断ち
生きた使える部分をへらし

そんな衰弱しきった心では
それでは日々起きてくる出来事の中
心が転んで擦りむくのも、あえて不思議ではない

古人はいうなれば、日々こころのベンチプレスをしてきた
しかし苦痛とともにではなく生活の1部として
ちょうどただ歩いていれば足腰が強くなるように

心も世界に触れねばならぬ
物質的自然と人間的自然と
各自の性質の赴くなかで、自然にはいる時間を持たねばならぬ
そうしてそれらがあなたの中に
何か暖かいものを揺りうごかすのを感じたなら
そういうものを大切にいきるのだ

そのきめ細やかな理性のなかに
人が真実と呼んできた0、
理性の始まりの姿を見る

それと知ってか知らずか、
真実に生きる人間の顔つきは
もうその目の色から違うのだ

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