見るということ

携帯電話のスクリーン、みんな必死で新しい何かを探している。楽しいものを探している。

かくいう僕も、しょっちゅう見ています。
生きていくための情報も
息抜きのための娯楽も
誰かとのつながりも
スクリーンにたくさん入っているから

だけど本当は
人工の景色、世界の紛いものを見るということは
自らに世界そのものを宿す
という高尚なことを
みずから遠のけることなのだ

僕らが愛して止まない

理性の奥深い秘密を
そのひとの素の魅力を

本当の先端は原始のなかにある

発光する画面が
子どもたちの理性と
そしてきっと大人たちの理性も
貧相にし続けてきて久しい

窓から降り注ぐ光
なんでもない窓
目に見えぬ光の筋ですら
わたしたちの理性を静かに守り育む

いま水鳥が横切っていく
それを追う僕の視線は、
一緒に自分の深いところの何かを、

片時も途切れさせずに動かしていく

そういう贅沢を、もっと積極的に、知ろうとするべきじゃないかなぁ

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