中江兆民のいうように「我が日本、古より今に至るまで哲学なし」という見方が一般的である。
しかし、東西の哲学をよく見てみれば、日本にはむしろ高級な哲学があるということがわかる。
それは、いわば何ものも前提とせずに世界をとらえようとするもの、哲学のゴールから哲学の筋道を描き出すようなものである。
たとえば本居宣長は、「世の中のありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、その万の事を味わえて、その万の事の心をわが心にわきまへ知る、これ、事の心をしるなり、物の心を知るなり。」
といい、生の中でであるあらゆる「事」がみな、ある種の芳醇な真実を内包しているという主旨をいってのけた。
これは決して外観を読むような単純なことがらではなく、「物に直に触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと」である。
清浄妙心とは何かという問いかけに、「山河大地、日月星辰」と応えた道元や
渓声(川の流れる音)すなわち広長舌(多くを語る)
という古人の言葉もまた同様に、
世界と自分とがあれば、そこに即座に真実の全容が姿を見せるという、本質を指し示している。
概念的な「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。
躍動する本質を前に言葉はのろく、不十分である。言葉はこの本質の後を追うように、必要に応じて現れうる。
そのため、世界との対峙がなくならない限り、人間から善の源泉が失われることもない。
たとえ全世界から宗教あるいは道徳が消え去ろうとも、
また、あらためて何度でもそれは、現れてくるということがいえる。
(もっともひろく隅々に普及するまでには時間がかかるから、野蛮に戻らぬよう、必死で守り伝える義務はあるが)
しかし、この世界との対峙という部分が、当たり前のようでありながら、現在非常に脅かされている。
地を蹴る感覚も、草花のにおいを嗅ぐことも、石の上に悠久の時間とそのものの性質を読むことも、昔と比べずいぶんとなくなった。
むしろ質の悪いアニメや漫画をはじめ、自然な感覚に蓋をし誤った感覚を増長するものが増えた。子どもたちは朝から晩まで、液晶画面のデジタルな単調の世界に閉じ込められ、または勉強という名目で、無目的の勉強という本来ありえない勉強を強いられている。なにかえの愛情が目的を生み、その手段として素では太刀打ちできないときに、必要に迫られて、なにかを学ぶのだ。そういうなにがしか感情を抜きにした勉強は、むしろ毒だと思っている。
自然や、人間の中にある本当にたくさん触れた後に、涵養されるはずであった、内なる真実と安定も、このごろはなくしてしまったひとであふれている。
大人たちはその結果をみては対処療法に明け暮れ、言葉に言葉で蓋をしようと試みる。
違う。おのおのの言葉が的確でなくなりはじめているのは、その言葉やってくるふるさとが、いま危機にさらされているからである。
それは、とても穏やかな危機である。衣食は一応保証され、娯楽もひとまずはある。
だから、だれもが気づかずに、けれども薄っぺらになっていく心のなにものかを感じ取っている。
面白い映像や掲示板を見て、仕事でも画面を見つめながら、世界の本質に触れているかけがえのない時間を、我々が自ら遠ざける。
テンションが上がるわけでもなく、ただ静かな時間にしかならないことは、娯楽として認識されず、本当の栄養を食べられない心のまんなかが、ますます貧相になる。
楽しいつもりで、まんなかが苦しくなる一方なのだ。
テンションの上げ下げの笑いには、栄養はそんなにない、たまにはいいけれど
ほんとの笑いには、内に青い静かな湖面を宿したような、明るい草原を行くときような、美しいものの根源がある。
キレイな夕日を友達と見入るような、そういう時間を、僕らはほとんど持たない。
言葉を持たない真ん中の理性だけが、ただすこしの悲しさを、今日も1つ積み重ねて
僕らは、いくつも観念を数えては、楽しいんだと言っている。
いいながら、また飢えている。
これが、現代人の危機である。
わかりにくく、緩慢に人間の、もっとも自然な魅力を奪い、
それにより教育(憧れの模倣)という、自然な魅力で正しさを証明するということができなくなり
次の世代は己の正しさを証明するに足る(と思える)他者の目を失い、
確信できる寄る辺をなくした多くの心は孤独に惑う。
正しさを得るのも、その得たものが周囲にとって正しいという理由も
世界との対峙が生み出す、われわれのなかにあって消えない、統一された本性なのである。
存在の本質への接触が、情をを動かし、理性を直くする。
ありのままの世界の認識は、そのまま己の最上の部分を目覚めさせる行為である。
自然のありようも、人の表情も、喫茶店のドーナツも、どこにでも宿る世界とその本質を
ちょうどだれもが見つけやすいのは
自然への憧憬が感じうる環境の中において、一番である。
生の現実は物そのものうちに老朽廃滅を含み、かえって「物」のもっとも重要な、特性的な本質そのもの」を現す。
そこにおいては物はただ物としてのみならず、われわれにとって、心理的な本当の充足の形を物語り始める。
物と己と二つになるな。
自然はなんどでも、どこまでも語りかけ続けるだろう。焦らないことだ。
心なき身にもあはれはしられけり 鴨(しぎ)たつ沢の秋の夕暮れ
自然は人の身体に宿り、人は自然に宿る
(鴨社の口伝)
われわれのしめやかな激情という気質は、この四季のある世界と自身との対峙の産物である。
自然の教える緻密である。
規則と前後関係にかなうことを真実とみなす一般の哲学に対し
すべて一時に補足しきれず、けれども日々なんべんでも、移ろいながら本当を語りかける、
そういう「ものの真実」に宿る「本当」をありのまま読み取るのが日本の哲学。
それと時間をともにした生活のあとに、自ずからおのれに宿り、あらゆる分野で理想を実現する道をしめす羅針盤となる。